ビジビリティー仮説
2011.8.5 by Baseball Concrete

1.はじめにお断り

 お越し下さった方の時間を無駄に消費しないよう、はじめに断っておきますが、今回はデータも出てきませんし客観的・実証的な解析と言えるようなものでもありません。むしろ、随筆みたいなものです。後から「何事かの実態を分析的に明らかにするものではない」とか「実証的な証拠がない」とガッカリしないよう、ご注意を。


2.商売の話

 さて、早速野球と関係がないようですが、商売の話を。商売の基本は、モノを仕入れて(製造して)、それを売る、ということです。このとき、売って得たお金すなわち売上が、モノを販売するのにかかったお金すなわち費用を上回ったとき、商売人は利益を得ることになります。常識ですね。そんなことを踏まえつつ。


3.太郎くんの商売

 あるところに、太郎くんという青年がいました。太郎くんは意欲的な青年で、自ら何か商売をして小遣いを稼いでやろうとたくらんでいました。でも、いきなり商売といっても何をすればいいのかわかりません。
 そこで太郎くんは本屋さんへ行き、商売に関する本を手に取ってみました。そこにはこう書いてありました。「売上から費用を引いたものが利益である。費用が売上を上回ると損失になる」。太郎くんが欲しいのはまさにそこに書いてある利益です。80円のものを100円で売れば20円の利益が出る。その20円は、自分の小遣いにできる。
 しかし、とはいえどうすればいいのか? つまるところ、どうやって売上が費用を上回るようにするかというのはこの世に存在する全ての営利企業にとっての永遠のテーマです。昨日今日やっと商売について真剣に考えはじめた太郎くんが簡単に解決できるならば苦労はありません。利益どころか損失を出してしまった日には、太郎くんの生活は脅かされることになります。
 どうしたものかと困り果てた太郎くんですが、あきらめずにうんうんと唸って考えていると、頭にパッとアイデアが浮かんできました。
 「そうだ! 費用のかからない商売をすればいいんだ! 費用をかけない限り、たとえ売上がゼロであっても、損失を出すことはない。費用をかけられない以上大掛かりなことはできないけれども、小遣い稼ぎなら十分だ」
 太郎くんは、知り合いから不要な物を回収し、それを組み合わせてアート作品にして売るというアイデアを思いつきました。不用品なら確かにタダで譲ってもらえる上、手元にある適当な工具で加工するならこれといって出費もありません。エコロジーを重んじる今の時代にも適合する考え方です。
 そうと決まれば行動力が売りの太郎くん、連日知り合いの家を回って熱心に不用品の回収をはじめました。幸い、家庭の子供がいらなくなったオモチャなど良いものがそれなりに集まりました。そして、持ち前のセンスを振り絞って加工。これらの作業に丸々一週間を費やしました。
 そして、満を持して街に出て行き、自慢のアート作品を10個並べて売り込みはじめました。
 はじめはみんな関心を持たず太郎くんも焦っていたのですが、徐々に売れ出します。太郎くんのセンスは子供にウケがよく、1個100円という良心的な値段設定もあって子供にねだられた親が「まぁ100円なら買ってやるか」と次々に買っていったのです。一日中販売をして、夕方にはとうとう10個全てが売れました。合計1,000円の売上です。
 太郎くんはこの結果に大変満足しました。
 「全部売れるなんて、すごいぞ。1,000円はそこまで大した額じゃないかもしれないけど、なにしろこの商売は費用がかかっていないのだから、全部が儲けだ。次はもっと売上を上げる方法を考えよう」
 そうして太郎くんは前向きに歩んでいくのでした。

 (この物語はフィクションです)


4.見えないけれどそこにあるもの

 さて、上記の太郎くんの商売について、どのようにお感じになられたでしょうか。
 なんとなく労力のわりに成果が少ないように見えますが、太郎くんにどのように反論することができるか。
 経営的に言って、太郎くんの行動には「機会費用」を考慮していないらしいという問題があります。機会費用とは、「ある行動を選択することによって失う、別の行動をしていれば得られたであろう利益」のことです。
 つまり、こういうことです。太郎くんは一週間も時間を費やしたのだから、そもそもその時間を使ってアルバイトなどをするという他の選択肢もあったはずです。でも、そうしなった。この場合、アルバイトをしていれば得られたはずの利益を犠牲にしている、すなわちそれが費用になっているということになります。「利益」が「費用」だというのだから少しわかりにくいですが。
 アルバイトをせずに(別にアルバイトでなくてもいいのですが)何かをするからには、その行動を選ぶことによって得る利益はアルバイトをする場合の利益を越えなければ意味がありません。というかそうでなければ損失です。
 仮に1週間ずっと1日5時間・時給800円のペースでアルバイトをすることができたと考えると、その場合太郎くんが得る収入は28,000円。太郎くんが「商売」で得た利益よりも27,000円多いですから、残念ながら太郎くんはそのくらい損失を出したと考えるのが合理的です。
 このことは理論的には単純なのですが、厄介なのは機会費用が目に見えないことです。実際に自分が財布から支出するわけではない。だから、商売に対する意識がないとついついただ時間が流れるだけで機会費用を消費していることに気が付きにくいところがあります。20円安い野菜を買うためだけに30分かかるスーパーに行くような「節約」も、この種の問題を含む自己満足という場合があるかもしれません。
 機会費用は、見えないけれどそこにある。本当はそこにあって本質的に重要なのだけれども、見えないから気付きにくいし曖昧にしか捉えられない。


5.何故打てない捕手は許され、エラーする遊撃手は許されないのか

 ここまでの話は長い前置きで、ここからやっと野球の話に入ります。
 今回考えてみたいテーマは「セイバーメトリクスの研究からすると、伝統的な評価は打撃を軽視し守備を過剰に重視する傾向にあるように見受けられる。すなわち極度に打率が低くても捕手で守備が良いから仕方ないといった見方が受け入れられる傾向にあり、一方でその逆は感情的に受け入れられにくいように思う。これは何故なのだろうか」というものです。
 例えば、リードに定評があって肩が物凄く強くてチームメイトから信頼されている捕手だったら、打率が2割台前半でもまぁ捕手の定位置である8番を打たせておけということであまり問題になりません。その選手は守備の人であって、打撃は他の選手が頑張ればいい。一方で、遊撃手がエラーの数を積み重ねると、打率が3割あってもファンはどうしても気になってしまいます。
 しかし、セイバーメトリクスの研究からすれば、守備による損益の幅というのは打撃に比較して小さいものです。したがって仮に「打撃はリーグトップで守備はリーグワースト」の選手がいた場合、打撃による利益は40点〜50点になるのに対し守備による損失はせいぜい20点。「打撃は良いけど守備が悪い」は総合評価的には問題ない場合が多いのです(ただし、同ポジションの平均に対して打撃が優れていることが条件ですが)。逆に「打撃は悪いけど守備は良い」選手は、守備で得られる利益が実際問題限定的であることから、総合評価は低くなるというか高くならないことが多い。
 それなのに伝統的には「打撃は良いけど守備が悪い」選手が嫌われる傾向にあり「打撃は悪いけど守備が良い」選手がそれほど問題視されない傾向にあるとするならば、それは何故か、という問題が生じます。


6.可視/不可視の非対称性

 私は何故「打撃は良いけど守備が悪い」選手が嫌われる傾向にあり「打撃は悪いけど守備が良い」選手がそれほど問題視されない傾向にあるのかというとそれは、打撃は成功が目に見えるものであり、守備は失敗が目に見えるものであるという結果に対する認知の性質の違いによるのではないかという仮説を持っています。
 打席で打てなかったとしても、原則としてそこで試合を決定付ける何かが起こるというわけではありません。三振したからといって自軍の得点が減るわけではない。しかし本塁打を打てば自軍の得点が増えるという形ではっきりと目に見えます。本当は、打てないというだけで「他のもっと打てる選手が出場していれば得られた得点」を失っているのですが、そのことは直接目には触れない。これは前述の機会費用の話と全く同じ原理です。
 そして守備に関しては、アウトを奪ったからといってスコアボード上で相手の得点が減るわけでもなければ自軍の得点が増えるわけでもありません。しかし失策をすれば「E」のランプがつくし、怠慢守備で失点すれば自軍の失点が目に見える形で増えます。
 すなわち、打撃に関しては失敗がインビジブル(不可視)であり、守備に関しては成功がインビジブルであるということです。だから打撃に関しては「打てていないこと」への評価が曖昧になり、守備に関しては「アウトを奪えていること」に関しての評価が曖昧になるのではないか。そうして打撃では「目に見える成功をする打者」がもてはやされ、守備では「目に見える失敗をしない」選手がもてはやされることになる。そういう仕組みではないかと思います。守備に関しては、失策をしないという条件さえあればそれ以上の部分の評価はかなり恣意的になる。それで歪な評価が生じるということが起こっていると言えそうです。
 もちろんこれは客観的に計測する側からすればおかしなことであって、「失敗」を「成功しないこと」に置き換えたり認知上の操作をすればキレイに対称な結果が出るはずです。従ってこれは野球そのものの問題ではなくて、これまでに開発され、たまたま使用されてきた「安打」や「失策」といった評価尺度、そして主観的な認知の問題です。





7.筋道としての正しさ

 機会費用の話と同様に、見えないこと、従来の計器によって計測されないことは「存在しないこと」を意味しません。従って、視覚的に確認可能な事実だけを単純に数えていくだけでは公正な評価にならない可能性があります。事の筋道に向き合って公正な評価を考える必要があります。
 セイバーメトリクスのBatting Runsなどは打撃イベントに得点期待値の観点からの平均的な価値を掛け合わせ「リーグの平均的な打者」に対してプラスマイナスを計算する指標です。随分と実体のないバーチャルなもので、もっと単純に記録されている事実を見ていけばいいではないかと思われる方もいるかもしれませんが、野球の記録というのはたまたまどの事象がカウントされていたかという問題にすぎません。まずはその記録によって評価をすることが妥当かどうかから考えなければ嘘でしょう。本当に「失策数という事実」だけ見ていて原理的に公正な評価ができるのかどうか。検討した結果妥当であるならば、用いるのが昔からある数字か新しい指標か、計算が複雑かどうかというのはどうでもいいことです。
 セイバーメトリクスの仕事というのは言い換えれば「事象の筋道を明らかにした上でそのライン上にあるインビジブルなものをビジブルに変えること」だと思います。




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